お葬式になぜ数珠が必要なのか!?

お葬式や法事に数珠を手にする参列者をよく見かけますが、どうしてお葬式には数珠が必要なのでしょうか!?
数珠の必要性の前に数珠の歴史を紐解いてみましょう。

数珠(じゅず)の歴史

現在では仏具の一つとして使われている数珠ですが、仏教発祥の地である西の国インドで今から約3500年も前に仏教に大きな影響を与えたとされるバラモン教の経典に記述があり、それはマーラーと呼ばれる祈りの道具で、一節にはキリスト教のロザリオ(十字架)、ヒンドゥー教のマラ、イスラム教のスプハなど数珠は世界各地に主に宗教の用具として広まり、仏教ではお釈迦様がアクシャ・マーラー(念珠)として用いるようになり、その後長い時間を経て、シルクロードを渡り中国や韓国などを経由し、飛鳥時代の日本に仏教伝来とともに伝わったとされています。

数珠の特徴や種類

数珠を形成する珠の数は誰もが知る年末の除夜の鐘の数と同じと言われています。
除夜の鐘の数は人間の煩悩の数と言われていますが、数珠もまた煩悩を清める意味で108珠で形成されているのだとか、、、
仏教に於ける煩悩とは人の苦や迷いの原因となる人の心、欲望や雑念であり、煩悩を滅することこそが解脱であり悟りであり、その過程が修行なのだろうと勝手に解釈していますが、ホントに108も煩悩があるものだろうか、、、疑問ですよね?、、、

例えば「雑念や欲望なんて108もねぇ〜わ!」という心は物事を素直に受け入れない煩悩であったり、「性格的に自分をコントロールできているし、例え迷いがあっても自分を律することができている」という心は自信過剰という煩悩なのかも知れません。
また、良い意味で使われている「子煩悩」も、必要以上に子供を可愛がる過保護、いわゆる親バカでこれもまた煩悩の一つで、他にも妬(ネタ)み・嫉(ソネ)み・僻(ヒガ)み等など、そう考えると知らずに煩悩の数は増殖するのかも知れませんね。
108の定義については、確たる根拠は見当たりませんが、仏教でいう「三毒」は欲・怒り・愚痴を指し、「汚い心」「恐ろしい心」「醜い心」は三毒の煩悩と呼ばれ、人の苦しみの3大要因なのだとか、、、
1ヶ月は約30日、仮に約10日毎に三毒にさらされる危機が迫ると計算すると月9回、その12ヶ月分が合計108回、つまり3.39日毎に1回の割合で人は苦しみに晒されるので、煩悩に流されず自分自身を律せよ!という戒めなのかもしれませんね〜。

僧侶が用いる数珠は基本的に二重にして使用する(宗派により2連の数珠もある)ため両手に収まる範囲だが、お葬式など参列、一般的には本来108が基本ですが、持ち運びやすい半数の54、他にも42、27、21、14個など様々ですが、数珠型のブレスレットはパワーストーンなど運気や守護、またアクセサリー要素があるため葬儀や法事の参列には不向きでしょうね〜。

お葬式に数珠は必要か?

さて、先送りにした今回の肝の疑問「お葬式になぜ数珠が必要なのか?」の答えですが、お葬式に数珠が無くても周りから指を指される事もありませんし、お葬式のマナー違反でもありません。
数珠の必要性、その答えは仏式の葬儀や法事の参列者は黒の喪服に黒のネクタイ、黒い革靴や黒いバックが基本的な必需品であるように、数珠も仏式葬儀や法事に於いてのマナーや礼儀作法と言えます。

例え黒のネクタイをつけ忘れてノーネクタイでも、柄物のネクタイを締めて参列しても、例えズック靴だろうと葬儀場の入り口でドレスコード違反で入場拒否などされません。

でも最低限の備えはしたいものですよね?数珠もその一つです。それ以上でもそれ以下でもないと思います。