武田菱、ひし形の菱とは?

小美玉市某所のお墓工事を承り、打ち合わせを進めていくと施主さまの家紋が武田菱であることに気づき・・・

武田菱と言えば甲斐の虎とも呼ばれた戦国武将の武田信玄を連想しますよね〜。

小美玉市と甲斐の国(現在の山梨県)では距離もありますし、ただの偶然なのでしょうか?果たして武田菱と何らかの関連はあるのでしょうか?

武田菱
武田菱とは四つのひし形を合わせて大きなひし形にした形状で、ほぼ同一紋様である四つ割菱(割菱)と比較すると四つの菱形の隙間が狭いのが特徴です。

ひし形
そもそも菱形とは小学校低学年の図形で習った平行四辺形を指し、斜方形とも呼ぶようです。

ひし形が有名なのは財閥系の三菱、トランプの赤ダイヤ、お雛さまを飾り付けする時に一緒に供える三色菓子のひな餅、反社会的勢力組織のシンボルマーク、などの他にクルマを運転する方なら必ず目にする縦並びの菱形、そうです。信号機のない横断歩道の手前の道路標示(この先横断歩道があるから注意して運転してください的な)などがあります。

菱形の菱っていったい何!?
ヒシとはwikipediaによるとミソハギ科の一年草の水草で、古くは全国各地の池や沼で自生し、夏に花を咲かせ秋に実を付け、中には食せる「菱の実」もあり現在でも食用に栽培出荷している地域もあるそうです。(見たことも食べたことも想像すら出来ませんが・・・)
その食せるヒシの実のカタチまたヒシの葉に菱形のものがあり水草であるヒシが由来のようです。

武田一族は支流も含め古くから四つ割菱以外にも花菱、三階菱、松笠菱など菱紋を用いるケースが多かったようですがひし形を用いた由来は武田の田を可視化した説もあり、植物のヒシを象ったについては明確ではないようですが特に戦国時代に登場する家紋には植物(葉)の模様が多いため関連がないとは言い切れないと思います。

甲斐武田発祥の地

ひたちなか市武田にある湫尾神社は甲斐武田氏の発祥の地で、武田郷の鎮守として武田大明神と尊称されたとのこと。神社裏手には中世の節の館を再現した武田氏館があり、発祥に関する資料や武田遺跡出土資料などが展示されています。

平安時代末期、八幡太郎義家としても知られる源義家の弟が常陸国進出を図り、長男の義業を現常陸太田市佐竹へ、三男の義清を現ひたちなか市武田に土着させ、地名である武田を名乗り武田家の始祖となった。後に朝廷より甲斐国に配流(国替)され甲斐源氏武田家19代当主には戦国大名の武田信玄(晴信)、そして20代当主にあたる武田(諏訪)勝頼、嫡男である21代当主の信勝の代で甲斐武田家は滅亡した歴史があります。

《まとめ》

●武田菱紋を用いた甲斐武田氏の発祥の地は以外にも県内のひたちなか市の武田地区でした。

●源氏(清和〜河内)の系統の源義清は地名の武田を名乗り甲斐武田の始祖となったようだが、地名の武田は約900年以上の歴史があることに驚かされる。

●武田氏の紋様、武田菱のひしは水草であるヒシの実や葉を象ったとされる説が有力で、ヒシの実は今でも食用として栽培出荷する地域がある。

●小美玉市と山梨県では距離があり、武田菱の関連性は薄いと思われましたが甲斐武田氏発祥の地が現ひたちなか市にある事などにより墓所工事の施主さまは甲斐武田一族と何らかの関係がある可能性はゼロではなかった。

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天正10年6月、歴史を塗り替える大事件、本能寺の変で信長が悲運の死を遂げる・・・
その約2ヶ月半前の3月22日、織田軍勢の甲州征伐により甲斐武田氏二十一代当主信勝とともに諏訪(武田)勝頼は自害し事実上、甲斐武田氏は滅亡した。
もしも勝頼があと3ヶ月生き延びていたなら歴史も変わっていたのかも知れません。
兵どもが夢の跡・・・